富山県・黒部市生地・生地台場

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【 概 要 】−生地台場は加賀藩によって築かれた海岸防衛の施設です。江戸時代末期になると日本沿岸周辺にも外国船の姿が見かけるようになりましたが、天保13年(1842)にアヘン戦争で日本から見ると大国と思われていた中国(清)がイギリスに敗れ一部植民地になった事実が幕府にもたらされると、一気に緊張が高まりました。加賀藩では嘉永3年(1850)に領地である加賀国、能登国、越中国の3州海岸の測量調査を行い10数箇所の候補地を選定しその縄張り図を作成しました。藩では家老である奥村助右衛門を中心に砲術家である小川群吾郎、小川権三郎、洋式砲術研究家である大橋作之進、鋳物師である国友次郎助、釜屋弥吉などが新たな海岸防衛施設の計画を作成、製作に携わりました。嘉永3年(1850)以降には本吉台場(石川県能美市美川)、大野台場(石川県金沢市大野町)、黒島台場(石川県輪島市門前)、輪島台場(石川県輪島市河井観音町)、宇出津台場(石川県能登町宇出津)、伏木台場(富山県高岡市伏木)の6つの台場が設けられました。嘉永4年(1851)には寺中台場(石川県金沢市金石本町)、畝田台場(石川県金沢市畝田)、宮腰台場(石川県金沢市金石町)、今浜台場(石川県羽咋市宝達志水町)、福浦台場(石川県羽咋市志賀町福浦)、狼煙台場(石川県珠洲市狼煙町)、正院台場(石川県珠洲市正院町)、曽良台場(石川県穴水町曽良)、氷見台場(富山県氷見市)、放生津台場(富山県新湊市)、生地台場(富山県黒部市生地)が随時建造されました。生地台場は案内板によると「外国船の渡来による海防上の必要性から加賀藩が嘉永4年(1851)10月に着手し11月に完成した。台場入り口には小刀門を設け、台場上部には5箇所の大砲設置場所が設けられた。台場の規模は長さ63m、幅8mで弧状をしている。現在の姿は幕末の設計図を元に復元したものであり、砂の下には台場の原形がそのまま保存されている。」とあります。
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