【 概 要 】−本法寺が所持している絹本著色法華経曼荼羅図は室町時代の越中国の守護代だった神保長誠が寄進したものと伝えられています。室町幕府10代将軍足利義材は延徳3年(1491)に父親である義視が死去した事を受けて、盟友である越中守護職で前管領である畠山政長の力を借り政権を掌握しました。しかし、政権は盤石ではなく反乱の鎮圧の為、兵を率いて京都を離れると、対立した勢力である細川政元や日野富子、伊勢貞宗等が足利清晃を11代将軍に擁立する「明応の政変」が発生し幕府中枢から排斥されました。さらに、討伐軍が派遣され止む無く敗北すると投降、龍安寺に幽閉されると暗殺未遂事件が発生し、さらに小豆島へ流される事になりました。身の危険を感じた足利義材は幽閉先から脱出し、畠山政長の家臣である神保長誠を頼り越中国放生津に下向し、放生津に暫定政権を樹立して越中公方(越中御所)と呼ばれました。越中公方は明応7年(1498)に足利義材が越前に居を移すまで続けられ、その前年である明応6年(1497)に神保長誠が義材の将軍職復帰を祈願して奉納したと思われます。本法寺が所持している絹本著色法華経曼荼羅図は国指定重要文化財に指定されています。本法寺は江戸時代に入ると富山藩の藩主前田家から庇護され、寺宝である絹本著色法華経曼荼羅図(富山市指定文化財)と法華経曼荼羅図古表具(富山市指定文化財)は初代藩主前田利次が補修するのに尽力しています。
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