富山県・五箇山・流刑小屋

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五箇山・流刑小屋
【 概 要 】−五箇山は周囲を高い山々で囲われ隔絶した地域だった為、江戸時代に入り加賀藩の領内に入ると流刑地として選ばれました。特に庄川の断崖絶壁の地形が好まれ、流域にある7集落に限定的に「お縮り小屋」と呼ばれた流刑小屋が設けられました。しかも、流刑小屋がある五箇山の庄川には橋が架けられず、縄を両岸に結びそこを籠に乗って移動した為、罪人が一人で籠を動かす事が出来ない仕組みになっていました。一方、刑の軽い受刑者は「平小屋」に収監され集落内は比較的自由に動ける事が出来た為、政治犯などは住民に学問を教えるなどの交流があったそうです。

元禄3年(1690)に加賀藩の藩士である安見与八郎をはじめ、宝暦9年(1759)には大槻朝元の一族である七之助も五箇山の流刑小屋に収監されています。大槻朝元は元々加賀藩の家臣(280石)の子供でさらに出家して武士ですらありませんでしたが、後に6代藩主となる前田吉徳の御居間坊主として仕えるようになり、吉徳が藩主に就任すると側近として重用されるようになりました。特に、逼迫した加賀藩の財政改革を断行し一定の効果を上げると3千8百石の大身に抜擢されました。しかし、吉徳が死去すると改革に不満を持った家臣や、異例の出世を重ねた事で妬みを持った家臣達から弾劾されるようになり、朝元は蟄居を命じられ、その後五箇山に配流となってしまいます。すると、7代藩主前田宗辰と8代藩主前田重煕の生母である浄珠院が吉徳の側室真如院によって毒殺されるという所謂「加賀騒動」が発生します。しかも、真如院は朝元と不義密通の嫌疑がかけられ捕縛され重罪に処せられ、朝元も五箇山の配流先で自害しています。

当地の流刑小屋は明和6年(1769)の田向村の大火で焼失後に再建されたもので、明治時代に入り加賀藩が廃藩になると流刑の制度も廃止となった為、流刑小屋は民間に払い下げられ、その後は物置小屋として利用されていました。しかし、昭和38年(1963)の大豪雪で雪の重さにより倒壊、現存している流刑小屋は極めて貴重な事から古材を利用して再建が図られ現在見られる姿に復元されています。流刑小屋は富山県指定有形民俗文化財に指定されています。

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