富山県・小矢部市・今石動城

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【 概 要 】−今石動城が築かれた白馬山には能登国二宮で延喜式神名帳にも記載されていた伊須流岐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)から分霊が勧請された伊須流伎比古神社が境内を構えていましたが、当地は越中国と加賀国の国境に近く、当時、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立関係にあった越中国の領主佐々成政を攻める為に、天正13年(1585)既に秀吉に従っていた前田利家は新たに城郭が築きました。越中攻めの最前線として重要視され、当時の越中国内最大規模の城郭が築かれ、名称は伊須流伎比古神社の本社である伊須流岐比古神社が石動山の山頂に鎮座していた事に因み今石動城と名付けられました(諸説有り)。今石動城には前田利家の弟で信頼が厚かった前田秀継が配され、同年5月には佐々成政に従った神保氏張(守山城主)、佐々平左衛門(木舟城主)、前野勝長(井波城主)が今石動城に侵攻し大規模な戦闘が行われましたが落城には至らず諸氏は撤退しました。同年8月には羽柴秀吉が今石動城に入り、ここを拠点に越中攻めの采配が行われ越中平定を完遂しています。大功のあったと前田秀継は木舟城4万石が与えられ、今石動城には城代として子供の前田利秀が就任、しかし、同年11月に天正大地震により木舟城が大破し前田秀継もそれに巻き込まれ命を落としています。跡を継いだ前田利秀は木舟城の再建を諦め、本城を再び今石動城に移し木舟城の城下町にあった社寺や商人、職人なども新たに町割した今石動城の城下町に配しました。文禄2年(1593)利秀が病死すると石動前田家は断絶しましたが、引き続き家臣だった篠島清了が今石動城を守りました。今石動城は文禄3年(1594)又は寛永15年(1638)に廃城となり、宝永7年(1710)までは篠島家5代が支配、その後は加賀藩の郡奉行や今石動町奉行が設置され藩が直接支配しました。

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